共に考え続ける先に (2022年1月31日号)
哲学研究者 永井 玲衣 「哲学対話」とは あなたの言っていることがわからない。どうしてそんなことを言うのかわからない。わたしが考えていることがわからない。なぜこんなにも突然話すことが下手になってしまったのかわからない。そうだと思っていたことが、そうじゃなくなって、わからない。 哲学対話と呼ばれる場では、こんなわからなさが、はっきりとした言葉にならないままに、わたしを絶えず揺さぶってくる。哲学対話とは、人々と問いのもとに集い、世界に問いを投げかけながら、じっくり考える場のことだ。話すだけでなく、よく聴きあい、すぐには見えない「何か」に手をのばして探究を重ねる。 そこでの問いは高尚である必要はない。哲学は何もバカにしないからだ。普段は意識にのぼらず、どうでもいいとされ、取るに足らないとされているものについても、存分に考えることが許される場が、哲学なのだ。 哲学対話での問いは、集った人々によって決められることが多い。「大人とは何か」「人をゆるすとはどういうことか」「ルールは必要か」「なぜ人間関係は苦しいのか」といったいかにも「哲学的」なものもあれば「冬なのになぜアイスが食べたくなるの」「入らなきゃと思っているのに、なぜなかなかお風呂に入れないのか」「魚と触れ合うとはどういうことなのか」など、たしかに言われてみれば、と思えるような問いも提示される。 わたしは、人々の問いを聴くことが好きだ。問いはその人の観点であり、切り口であり、世界への態度だからである。世界に根ざす中で、その世界をどのようにまなざしているのかを知ることができる契機だからだ。 集まって考えること だが、こうした場を開くと実感することがある。わたしたちはよく、考えることに慣れていないとか、人々と話すことに慣れていないと言う。わたしもはじめはそう思っていた。しかし、そうではないと最近は感じている。わたしたちは、考えるということ、人々と集まって話すということに、深く傷ついている。慣れていないのではなく、傷ついているのだ。 何かを誰かの前で、誰かと共に、決断すること、選ぶこと、考えること、話すこと、そうした一つひとつに、わたしたちは深く傷ついている。自分の考えを馬鹿にされたり、きちんと聞かれなかったり、ないがしろにされたり、多かれ少なかれそのような経験を小さく、小さく積み重ねている。 もしくは