夢も未来も奪った原発事故──3・11子ども甲状腺がん裁判(2022年6月10日号)
原告はパーテーション越しに登場した。甲状腺がんが見つかった日の健診では、新しい服とサンダルを履いていたこと、検査時間が長かったため、「もしかして、がんがあるかもね」と冗談めかして母親と話したことなどを述べ、声をつまらせていた。
その後の闘病生活は、想像を超えるものだ。「手術をしないと23歳までしか生きられない」と医師に言われ、すぐに手術をしたが、だるさ、発熱、吐き気などの体調不良と戦わなくてはならなかった。
第一志望の東京の大学を諦め、近県の大学に進学したものの、入学して最初の定期検診で再発が見つかり、退学。「『治らなかった、悔しい』この気持ちをどこにぶつけていいかわかりませんでした」と原告は語る。
その後、肺転移の治療でアイソトープ治療も受けることに。高濃度の放射性ヨウ素のカプセルを通院で2回飲んだが、がんは消えず、3回目は入院治療だった。周囲を被ばくさせてしまうため、鉛の部屋にたった1人の隔離生活。吐いても、目の血管が切れて充血しても、看護師は来ず、薬が処方されるだけ。その治療も、うまくいかなかった。
「以前は、治るために治療を頑張ろうと思っていましたが、今は『少しでも病気が進行しなければいいな』と思うようになりました」という原告。大学も、未来も諦めたくなかったと、何度も声を震わせていた。
この陳述のあと、東電側弁護士は明らかに動揺していた。「今後の期日では、原告の陳述は不要」と言いたいところを、言葉を濁し、「裁判官に一任する」と言いかえた。
次回裁判は9月7日14時から。被害を受けた子どもたちの必死の訴えを応援したい。