「本土復帰」とは何だったのか(2022年6月10日号)



自衛隊反対闘争と現在

自衛隊は1972年の本土復帰とともに沖縄にやってきた。自衛隊那覇基地が米軍基地に新たに加わり、米軍基地機能が移管されることとなった。沖縄戦を経験した沖縄の人々にとって、「米軍より怖かったのは日本軍だった」とよく言われる。家を取り上げ、宿営にし、家畜・食料を奪った。壕の中で泣く子がいると、母親の腕の中で殺した。住民をスパイ視して殺害もした(嫌疑をかけた人のリストの存在も明らかになっている)。

1945年6月23日、日本軍の指揮命令系統が断たれると、沖縄本島南部に追い込まれた沖縄の人々は、日本軍に協力させられた看護女子学生たちも含め、荒れ野に放り出された。

沖縄戦経験者にとって、自衛隊は日本軍と重なる軍隊そのものだ。27年間の米軍の圧政に苦しんできた延長に自衛隊があることはおぞましく、許せなかった。復帰前後、自衛隊反対闘争は労働組合の大きな課題であった。

憲法九条を逸脱し、いま自衛隊は米軍との共同訓練を続け、膨張し続けている。沖縄の宮古島、石垣島、与那国島には、住民の意思を無視して自衛隊が配備され、ミサイル基地が建設されている。


復帰記念式典と県民大会


50年前の復帰記念式典も今年と同様に雨天で、抗議と歓迎の交錯した日であった。式典会場の那覇市民会館の隣の与儀公園で開催されていた、復帰の内実の欺瞞を追及する県民大会の怒号が忘れられない。50年前、式典挙行のために式典会場にいた元沖縄県庁職員が「あの県民大会の中にいたかった、いるべきであった」とつぶやいていた。まさか50年後、こんな沖縄の現状を見るとは夢にも思わなかったと。

今年の復帰50周年記念式典は、東京と沖縄で同時開催、式典はテレビで中継された。どのように県民の意思、思いが伝えられるかと待ち望んでいた。玉城デニー沖縄県知事は、米軍基地過重負担の思いを式辞に盛り込んだが、辺野古新基地建設には触れなかった。岸田首相のあいさつも通り一遍で、スムーズな式典挙行に終始していた。

しかし同日、那覇文化芸術劇場「なはーと」で開催された平和とくらしを守る県民大会(5・15平和行進実行委員会主催)の大会宣言では、2020年までに米軍基地から派生する事件事故は6000件を超え、殺人やレイプなどの凶悪事件は600件を超えていると数字を示した。辺野古新基地建設、オスプレイの配備、先島へのミサイル基地配備強行、米軍と自衛隊の共同訓練、日米の軍事要塞と化している現状を告発し、戦争のない世界をつくる決意を誓った。

不平等な日米地位協定、基地由来のPFAS(有機フッ素化合物)による環境汚染、保育園等に落下する米軍機の部品、危険と隣合わせの普天間基地周辺の学校、女性への性暴力等の人権蹂躙、爆音の被害…等々、沖縄が抱える課題は尽きない。

PFASについては、国の暫定指針値の576倍が検出されていたことが報じられたばかり(5月26日付琉球新報)。汚染水が基地外へ流出した可能性もあるという。沖縄では、こうして人々の普通の暮らしが脅かされ続けているのだ。


沖縄の長い歴史


沖縄には、当然のことながら、1972年の「本土復帰」前に、琉球王朝時代から続く歴史がある。沖縄民謡『時代の流れ』は「唐の世から大和の世 大和の世からアメリカ世、ひるまさ変わたるくぬうちなー」と時代の流れをコミカルに歌っている。唐の世とは中国のことであり、大和の世、敗戦と同時にアメリカの統治下に入り、本土復帰まで27年間のアメリカ世が続いたのだ。

1429年唐の世のころ、は地方の勢力等の三山(北山、中山、南山)を統一して琉球王になった。日本、中国、朝鮮、東南アジアと交易して琉球王国は栄えた。東アジア社会の一員として、中国との朝貢・冊封体制は、1404年から1866年まで462年間にわたり続いた。

1872年、琉球国から琉球藩に。琉球処分の始まりである。明治政府により、は清国との朝貢を差し止められた。そして1879年(明治2年)、日本政府の命を受けた内務大書記官松田道之は、警察官160人と武装兵400人を伴い首里城に乗り込み、沖縄県設置を宣言。廃藩置県を断行した。尚泰王は同年3月31日に首里城明け渡しを命じられ、琉球王朝時代は終わった。

沖縄県設置にさかのぼること270年前、1609年に薩摩藩主島津家久が薩摩軍3000を伴い、琉球王国を侵略した。琉球の側に戦意がなかったために抵抗らしい抵抗も受けずに征服し、琉球国王だったはじめ重臣を捕虜にした。薩摩藩は領地拡大、中国貿易の有利性等を考えて琉球へ出兵したのだが、時の幕府徳川家康の同意を得ていた。また、徳川家康が朝鮮出兵のため国交断絶した中国(明国)との国交回復を琉球の朝貢・冊封体制に求めていたこともある。

太平洋戦争敗戦の後、日本と米国双方に利するとして、1947年9月に出された天皇メッセージ(米国による琉球諸島の軍事占領の継続を望む)は今も生きている。そして、1951年のサンフランシスコ平和条約で沖縄は切り離されたのだ。


命どぅ宝は譲れない


復帰50年目、今年5月18日の沖縄タイムスは、沖縄の施政権返還交渉について「米軍基地を維持し返還」と日本政府の対米交渉の内幕を報道した。米国公文書の公開によるものだ。返還問題が国民的議論になった場合、70年安保にも飛び火するとして、1965年頃から、沖縄に米軍基地を維持したまま米国から施政権を取得する方策、米軍基地を除いた地域の施政権返還をも検討していたと同紙は報じている。

「本土復帰」50年をめぐり、沖縄県民は様々に過ぎし日々を思い返し、次の50年後、100年後にどうありたいかを考えた。

戦争からは、何も生み出せない。憲法九条を護り、「命どぅ宝」のほかはない。

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