「個」として動く、思いの連鎖  ─『「個」のひろしま』著者・宮崎園子さん

 8歳の時に広島で被爆した岡田恵美子さん。アメリカ、チェルノブイリ、ノーベル平和賞授賞式の現場等で発信し続けた。2021年急逝した彼女の生涯を追う『「個」のひろしま』(西日本出版社)の著者、元朝日新聞記者の宮崎園子さんに、仕事や著書への思いを聞いた。





ーー東京本社への異動を命じられたことがきっかけで退社したそうですね。


「生活を犠牲にして成り立つような報道ではダメ。コロナ禍の異様な雰囲気の中で小学校に入学した娘に、たった1年で生活の変化を強いたくなかったのもあります。生活を犠牲にしてまで『大きな仕事をしてこい』という発想は、ホモソーシャル(男社会)の抱える問題でもありますよね。東京でのスケールの大きい仕事より、地域社会の一員としての視点で、地方から問題提起をしたい記者だっているんです」。


ーー「広島」に根ざした理由は。


「私は、被爆者のひ孫にあたる子どもを育てる親です。遠くの人たちに届ける社会面に広島のことを書くのも大切ですが、広島の地域面で、地元の読者とともに、我がこととして語り継ぎの在り方を考えるような記事をもっと書きたかったというのがあります」。


ーー新聞記者を辞めて初めての著書が、『「個」のひろしま』です。


「岡田さんの人生は、新聞の決められた文字数では、書ききれません。個として自発的に動き、人とどんどん繋がっていく。被爆者として語る人生を選び、被爆者であることを顧みて、被爆者としての紆余曲折も抱えていました」。

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岡田さんの姉は当時12歳で8月6日を迎え、朝、「行ってきます」と出たきり帰らなかった。爆心地から900㍍の場所で作業をしていた。両親は探し続けたが、お骨も見つかっていない。

戦後、岡田さんは親の借金を返しながらファッション業界で働いた。愛息の突然の死を契機に辞め、英会話教材販売の仕事に転じた。その後、被爆経験を証言する機会に巡り合う。

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ーー当時の岡田さんを知る人のたくさんの証言によって、岡田さんの行動や人柄が立体的に浮かび上がりますね。


「岡田さんが証言を始める1980年代の平和運動の熱気は新鮮でした。当時はアナログで、何でも紙と電話。どうすれば人に伝えられるかという『熱』を感じます。伝承の試行錯誤の歴史の中には、岡田さんが参加した″国際電話プロジェクト”もあります。彼女は、アメリカの平和活動家バーバラ・レイノルズの『被爆者だけが伝承するのではなく、広島の人は平和を作っていく、伝えていく義務がある』という言葉を大切に、世界に伝えていこうとしていました」。


ーー岡田さんが日本の加害性を意識されているのも印象に残っています。


「パールハーバーはどうなの、日本軍が中国で何をしたかわかっているのか、と言われたりしながら、岡田さんは日本の加害責任も学び続けたんですね。私も海外育ちなので、前提が違う人とのコミュニケーションの難しさはわかります。8・6を軸に、全方位にターンしながら踏み入れているのが岡田さん。彼女は、『個』として動く。会社を辞めた今の私の思いとも重なるんです」。


ーー新聞記者を辞めて約1年とのことですが、何か変化はありましたか。


「立脚点を明確にしたことで世界が広がりました。原爆小頭症の被爆者と家族が集う、きのこ会の事務局もお手伝いしているんですが、市民活動に深くコミットすることで見えてきたものがあります。新聞記者という看板は外し、『ジャーナリズムのスキルを持つ一市民』として生きようと思ったから、『ヒバクシャ』というより「『被爆体験を持つ一市民』を貫いた岡田さんに共感することが多かった。私も、自分の軸を大切に暮らしたいと思います」。

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