「あの事故がなかったら、絶対にいま 苦しんでいる人はいなかった」

 ▼新潟避難者訴訟

福島第一原発事故により、福島県から新潟県に避難した住民らが国と東電に慰謝料を求めた裁判の控訴審第一回口頭弁論が8月31日、東京高裁で開かれた。新潟から東京高裁までは330㌔と遠いが、原告約10人が東京高裁にやってきた。意見陳述を行なう予定だった原告は体調不良で来られず、代理人が代読した。

浪江町の原告女性は、過酷な避難行動に耐えきれなかった障がいを持つ弟を、事故から12日後に亡くしてしまった。その後、夫と父親は福島県内に住み、自分と母と子どもたちは新潟県で避難生活を送る家族バラバラの暮らし。家族間の意見の違いが大きくなり、次第に溝ができてしまったという。2歳で被災した娘は、数年前から不登校に。カウンセラーからは、避難途中で母親と離れていた時期に、心に深い傷を負ったと説明され、「悔やんでも悔やみきれない」と訴えた。「こんな人生なら死んでもいいかな」と思ったこともあるという原告女性の思いに傍聴人は静かに耳を傾けていた。

一方の東京電力は、パワーポイントの資料で裁判官にプレゼンを始めた。内容は、原発事故の被害の実態からかけ離れたものだった。例えば、「いわき市小名浜地区は、原発ではなく津波による避難」「郡山市では家屋倒壊被害」として、津波やビル倒壊の写真と個別の原告番号まで記載。「仕事の都合」「転勤」などと、まるで避難の原因が原発事故ではないかの発言を連発した。さらに「東京電力は賠償を払い過ぎている」とも言い、傍聴席はざわめいた。

原告の男性の1人(飯舘村)は「東電側のお話はいい加減で、あまりにも雑な話でびっくりした」と呆れていた。

傍聴に来られなかった原告もいる。原告の1人の女性は、原告有志・支援者らから集めた800羽の鶴を束ねて持参していた。800という数字は、この新潟訴訟の一審時の原告数でもある。

次回期日は12月12日。駆けつけられない原告のためにも、関東圏の人は、ぜひ応援に東京高裁へ。


▼県民健康調査検討委員会


9月1日には、福島県民健康調査検討委員会が福島市で開催された。福島県による甲状腺検査の結果では、4巡目検査で新たに2人、5巡目検査では5人ががんまたはがん疑いと診断された(3月31日現在)。これまでに同検査でがんが確定したのは237人、がん疑いは47人となった。術後の診断で良性とわかった1人を除き、がん登録などで見つかった43人を合わせると、がんまたはがん疑いとされたのは合わせて326人となった。

この日は一般傍聴席は設けられず、メディアのみの参加。環境省の神ノ田昌博(大臣官房環境保健部長)は長々と意見を述べて、途中退席した。「UNSCEAR報告書」と「エンパワメント」という単語を多用し、国の思惑を凝縮したような発言だった。

要約すると、「将来的な放射線による健康影響は見られないという専門家の評価が得られた」「環境省のアンケートでは将来生まれる子どもや孫に影響があると誤解する人が4割も」「結婚差別、偏見を取り除くために、子ども自身が〈放射線の健康影響に関する正しい情報〉を勉強し、反論できるように取り組む必要がある」「甲状腺がんが増えた原因は超音波スクリーニングの結果という指摘がある」「親が心配で早期に手術を行なうケースもあるが、本人の意思を反映させるように」といった内容だ。

復興庁発表の避難者数から6000人以上が削除された、または今後される可能性があると前号で報じたが、福島県による甲状腺エコー検査でも「所在不明」問題がある。25歳以上の節目検査対象者の10%程度に、通知が届かないという。2018年にそのことが問題になったものの、未解決のままだ。検査実施の平等性を考えても問題がある。避難者数の問題と合わせて、一人も見棄てることのないようにしてほしい。


▼3・11甲状腺がん裁判


9月7日には、3・11子ども甲状腺がん裁判の第2回期日が東京地裁で開かれた。この日、事故当時小学6年生だった女性が新たな原告として追加提訴。原告は7人になった。

原告に加わった20代の女性がインタビューに応じてくれた。

その女性が何度も口にしていたのは「自分を責めてしまう」「後悔している」という言葉だった。学生時代に周囲との差を感じて、自分はダメだと悩んでいた頃、追い討ちをかけるように甲状腺がんが発覚。友人たちと話すこともつらくなってしまい、引きこもる日々だった。原因など考える余裕もなく、転移する前に悪いものを取ってしまいたいと思ったと話す。

「『ああしておけばよかった』『こうしておけばよかった』と気持ちを切り替えられなくて、ただただ不安と恐怖を抱えていました」。

しかし、この裁判のことを知り「私だけじゃない」と思えたという。今では、原告の存在は「一番の力」と語り、仲間がそこにいる、というだけで安心すると話す。

「(甲状腺がんは)自分には関係ないと思っていました。今思うと、能天気だったし、反省もしています。その上で、自分たちの知りたいことと向き合わなくてはいけない。裁判でやり遂げられると思うから参加しています。病気を不幸だと考えていたけれど少し変わりました」。



彼女は手術後の今も通院する日々だ。裁判への意志は強い。

「何があろうとも、何十年かかろうとも、最後までやるという意志を固めています。生半可な気持ちではダメだと思って」。

そして「あの事故がなかったら、絶対にいま苦しんでいる人はいなかったと思うんです。仕方ないよね、で終わらせられたくない」と話してくれた。

第2回の裁判では、25席の傍聴券を求めて157人が並んだ。原告と弁護団は、再三「大法廷でやってほしい」と求めてきたが、裁判所は応じていない。

この日、意見陳述をした女性は、原告の中で最も年齢の低い17歳。幼稚園の年長の時に浜通りで被災し、11年間、小さなアパートで避難生活を続けたままだ。中学2年生のときに甲状腺がんがわかり手術をしたが、昨年再発した。

穿刺細胞診の恐怖、術後の食事のつらさ、眠れない日のこと、そしてアイソトープ治療とその副作用。陳述では、つらい手術や治療の様子が語られた。

「自分の考え方や性格、将来の夢もまだはっきりしないうちに、全てが変わってしまいました」。

そう述べ、将来自分が何をしたいのかわからないこと、経済的に安定した公務員になりたいこと、そして「恋愛も、結婚も、出産も、私とは縁のないものだと思っています」と訴えた。法廷にいた弁護士によると、将来のことを語る場面では、涙声だったという。

裁判後の記者会見で、原告を担当した福田健治弁護士は「抽象的被害ではなく、まさに原発事故の被害。原告一人ひとりの話を聞いてほしい。争点が過剰診断論となったが、今日の原告は転移をしているし、本当に手術は必要なかったのか、と問いたい」と話した。


傍聴席の倍率は前回は10倍、今回も6倍以上。社会的関心がこれほど高い裁判にもかかわらず、「大法廷」と「原告全員の意見陳述」について、裁判所は未だに認めていない。次回署名の〆切は10月15日。QRコードからぜひ署名を。

(吉田 千亜)



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