「人のいない町」が この国から消えた日


 


福島県双葉町。人口は6830人という小さな町だった。東に太平洋、西に阿武隈山系をのぞみ、海と山に囲まれた豊かな自然を誇る町だ。原発事故後、避難指示が出され、全町民が県内外へ避難した。

2022年8月末、町の一部で避難指示が解除され、11年半ぶりに「ふるさとで暮らせる」ということになった。10月1日からは、双葉駅西口に建設された災害公営住宅の入居が始まった。そのピカピカの建物と、片や、11年前のままの風景。


*  *  *


鵜沼久江さんのご自宅は、福島第一原発から約2・5㌔のところにある。2022年10月1日、閉ざされたゲートの向こうに連れて行ってもらった。

鵜沼さんは、牛飼いをして暮らしていた。原発事故後、避難を強いられた後も、大切に育てていた牛を殺したくないと、何度も自宅に戻って餌と水を与えようと試みていた。

しかし、警察や自衛隊から「この先には行ってはいけない」と20㌔地点で制止され、牛の世話をすることは叶わなかった。自分たちのことよりも、牛のことが心配だった鵜沼さん。後ろ髪を引かれる思いで転々と避難した。事故から1週間も経つと「もう牛はダメだろう」と諦めた。

一時帰宅が叶ったのは、事故から5カ月が過ぎていた頃。放射線量の高い地域は後回しにされ、なかなか帰宅することができなかった。「あの、牛の死んだ匂いが忘れられない」と、当時を思い出し、ぽつりと話してくれたことがある。

その牛小屋は、今は亡き夫と2人で手作りで建てたもの。夫は下で作業し、鵜沼さんは屋根の上で作業をして作り上げた。

中に入ると、鵜沼さんは黙って足元を見つめていた。何か、小さく蹴るような仕草をしている。よく見ると、牛の骨だった。

「ここに挟まっていた牛は、つらかっただろうと思うのよ」。

外に出たくて、柵の間に挟まって死んでいた。土の上には、乾いた骨があちこちに散らばっている。それを、鵜沼さんは足の先で集めていた。

鵜沼さんが大切に育てていた牛は、一部は脱走し、人のいない町を走り回っていた。食べ物や水を求めていたのだろう。「鵜沼さん家の牛が、6号線(国道)にいたよ」と連絡があったこともある。怖がりで繊細な牛たちが、生きるために必死だった。

一方、柵を超えて逃げられなかった牛たちはみな、この牛小屋の中で死んでしまった。


牛小屋から出る時、鵜沼さんは私を振り返ってこう言った。

「これに比べたら、私らのほうが大丈夫でしょう」。

牛の死ぬ苦しみに比べたら、ということなのだろう。いつものように、優しく、きっぱりとしたその口調に、返す言葉がなかった。


もう一カ所、連れていってほしかった場所があった。鵜沼さんが度々、海を見るために訪れていた海岸だ。

鵜沼さんは「嫁」として夫の両親の住む家で暮らしていた。姑との関係で、つらいことがある度に、細谷海岸で海を見ていた、と話してくれたことがあったのだ。その海岸は、中間貯蔵施設の敷地内で、地権者以外は自由に行き来できない。だから、「鵜沼さんのご自宅と、細谷海岸に連れて行ってください」とお願いしてあった。


汚染土の保管場の間を通り抜けると、海が見えてきた。満潮の時間だったのか、「いつもより水が多い感じ」と鵜沼さん。風も強く、波の音が大きく響いていた。

鵜沼さんが車の免許を取ったのは結婚してからだ。「行動範囲が広がって、自由になった気がしたの」と話してくれたことがある。今も、避難先の埼玉県から福島まで、自分で運転して行き来する。




細谷海岸には、大きな波が打ち寄せていた。「ここに来て海を見てるとね。私が悩んでいること、全部ちっぽけだな、って思えたのよ」。自然の強さ、雄大さを感じさせる風景の端に、廃炉作業中の原発が見えた。


この日は、鵜沼さんの友人の女性も一緒だった。鵜沼さん同様、いつも明るいその女性は、この海岸に来て、こう言った。

「震災後に初めて来た時、この海に飛び込みたかったの。震災後に初めて海を見たから、泣いたよね。(埼玉に)帰りたくなくて、どうやったらテトラポッドに打ち付けられずに沖に行けるかなんて考えて」。





彼女もまた、双葉町から埼玉県に避難したままだ。

「あの日(2011年3月11日)、私は弁当屋で働いていたんだけど、夜中に東電にトンカツ弁当を届ける日だったの。店長から『注文入っているんだから、持っていかなくちゃ』と言われたけれど、さすがにね…」。

3月11日の夜中といえば、津波で全電源を喪失し、ベントを試みていた頃だ。原発から3㌔圏内の人々は、11日中に避難が呼びかけられている。そこに弁当を配達することはとうてい無理だっただろう。


*  *  *



双葉駅西口の町営住宅は、一部が完成し、この日(10月1日)が入居可能日だった。引っ越しして来る人を多くのメディアが待ち構えていた。この日までに25世帯の住宅が用意されていたが、入居するのは4世帯。そのうち、2世帯は移住者だ。

ガラス張りの入口、バリアフリーの室内、木をふんだんに使った3LDKの長屋風の建物には、住所らしき記号と番号がつけられている。双葉駅に直結していて、交通の便は良いものの、周囲にコンビニもなく、生活するにはまだまだ不便そうだ。







鵜沼さんは「この住宅の一部屋、町民のために貸し出してくれたらいいのに」と話す。双葉町に来ても、泊まる場所がない。避難を継続しながら、町との関わりを持つためにも、部屋を解放してほしいという。しかし、その提案に町は首を縦には振らない。

鵜沼さんと友人の女性は、この日、友人や知人に7人も出会えた。小さな町では、みな、顔見知りだ。「今どこにいるの」「何しに来たの」と、話をする顔は綻んでいた。

いわき市に避難中の男性は、今日が入居の日だと聞いてやってきた。

「川の水は、使っちゃダメなんだ。羽鳥(放射線量が高い地域)から前田川(水源)が汚染されている。(農作物を)作っても、食糧にはならん。廃棄物だ。ここだって、本当は安全じゃない」。

町営住宅の空き家の縁側で、鵜沼さんと男性は、そんな会話をしていた。


「復興」は、単純なものではない。この地域の人々の、町を愛する気持ちと、まだ回復されない原発事故の爪痕との間で引き裂かれる思いを、忘れてはならない。

(吉田 千亜)



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