どこにもある「ムラ社会」  排除と思考停止をどう乗り越えるか

 


宮崎園子(みやざき・そのこ)さん

広島在住フリーランス記者。1977年、広島県生まれ。育ちは香港、米国、東京など。慶應義塾大学卒業後、金融機関勤務を経て2002年、朝日新聞社入社。神戸、大阪、広島で記者として勤務後、2021年7月に退社。小学生2人を育てながら、取材・執筆活動を続けている。『「個」のひろしま 被爆者 岡田恵美子の生涯』(西日本出版社)で、2022年度第28回平和・協同ジャーナリスト基金賞奨励賞受賞。




少し前の話だが、映画館で『裸のムラ』を観た。政治家たちやいくつかの家族に密着し、「ムラ社会」とは何かを描いた、石川県が舞台のドキュメンタリーだ。時代の空気感や社会に漂うモノを切り取り、スクリーンで表現するというのはとても難しいことだと思うが、それらを見事にあぶり出した作品だとわたしは感じた。

特に印象に残ったシーンが2つある。

1つは、映画の主たる被写体となった政治家らの一場面。保守三つ巴の激戦を制した新知事誕生を祝う壇上で、大きな花束を抱えた女性たちが、喜びの当選者に手渡し終えるといそいそと壇上から撤収した。贈呈後、壇上で喜び合ったのは見事に男性だらけだった。新知事は女性の活躍を応援するというようなことをマイクを持って語っているのに、だ。

もう1つは別の主人公となったある家族のシーンだ。パソコンとスマホを使って仕事をこなし、大型車両(バン)を拠点に、場所に縛られない働き方を実践して自由に生きるノマドワーカーの父親と同居の娘。父親からパソコンで日記をつけることを日課にさせられている娘はイヤイヤ従うが、「書けたよ」と見せても、父親は自分のスマホを見ながら適当にあしらうだけだ。

小道具としての“女性”

マスメディアで19年間働き、最近そこを離れたわたしには、これらをはじめ、あらゆるシーンが自分自身の体験と重なって、何とも言えない気分になった。端的に、そして少々雑に表現するならば、「女ってさしづめステーキの横の付け合わせの野菜なんだな」。見栄えを良くするための飾りというか、男の「やってる感」を醸し出すための小道具というか。

2017年4月、わたしは子ども2人を連れ、夫とともに大阪本社から広島に転勤した。上司からは「ワーク・ライフ・バランス」だの「ロールモデル」だの、いろんなミッションを背負わされた。女性記者のキャリアアップを軸とした家族同伴の地方転勤は珍しい試みで、同業他社の記者たちからも関心が寄せられた。

地方の取材拠点に、子育てをしながら取材をする中堅の女性記者の姿はほとんどない。

入社間もない若い記者がまず配属される地方にこそ、多様な生き方をする記者の姿が必要だという思いがあったので、家族と相談の上、前向きに転勤を受け入れた。

見せかけの「女性活躍」

だが、4年間の勤務を経てわたしが感じたのは、女性活躍推進なる看板は、掛け声に過ぎないということだった。現場の女性たちにばかり「活躍」を強いる一方、決定権を握る立場の男性たちには、ジェンダー不平等、地方取材網を軽んじる東京目線・本社至上主義の組織文化を抜本的に変えなければという課題認識や危機感がないのだと、ある意味悟った。

思えば、変わるつもりがない男性の姿は、皮肉にも人事発令のその日から見えていた。ある上司からこう言われたのだ。「お前、ベビーシッターはどうするんだ」。育休からの復職以来、在宅勤務もとり入れつつ、新しい働き方を模索している途上だっただけにがっくりきた。「わたしの地方転勤は、シッターを雇って時間外(あるいは長時間)労働をすることが前提なんですか」と。

育児・家事時間捻出のため、1時間かけてやっていたことを30分で済ませるべく時間にシビアに仕事をした。心ある上司が、時短をやめて裁量労働制に戻っていいと言ってくれたが、18時ごろに仕事を切り上げて保育園に向かうわたしに、同世代の男性記者はこう吐き捨てた。「あーあ、オレだって早く帰って子どもと遊びたいわ」。職場を出て子どもと遊んでいると思われていると考えると悔しかった。

赴任後、会社案内的なものに出てくれないかと打診されたが、丁重にお断りした。女性活躍推進のキャンペーンガールになるつもりも、「やってる感」の醸し出しに協力するつもりもなかったからだ。

マスメディアとムラ社会

『裸のムラ』の監督は、石川テレビの現役記者でわたしと同世代の幸男さんだ。富山市議会の公金不正を追及した前作『はりぼて』で話題になったが、政治の世界以外にノマドワーカーやムスリム家族など被写体が並行して登場する本作には「わかりづらい」との評価もあるらしく、「キレイなドキュメンタリーに慣れた方々にはなかなか受け入れていただけない」と言う。わたしは、この構成があってこそ「ムラ社会」の根深さがより浮き彫りになっていると感じた。政治の世界はわかりやすい男性優位社会。だけど、男社会=ホモソーシャル社会=ムラ社会なんていう単純な構図ではない。

「村社会」を辞書で調べると、「有力者を中心に厳しい秩序を保ち、しきたりを守りながら、よそ者を受け入れようとしない排他的な社会」「同類が集まって序列をつくり、頂点に立つ者の指示や判断に従って行動したり、利益の分配を図ったりするような閉鎖的な組織・社会」などとある。

「有力者」や「頂点に立つ者」とは何か。

男女の対比ならば男かもしれないが、日本社会における日本人と外国人なら日本人だ。親と子なら親? 東京と地方都市なら圧倒的に東京だろう。そういう様々な対比的な構図あるいは権力構造の中で、「排除する人」「よそ者」「頂点に立つものに従う者」はそれぞれ誰だろうか。

人間関係が複雑に交錯する社会。それぞれの世界にムラ社会は存在する。無意識のうちに、自分も誰かを排除していないか。よそ者扱いしていないか。あるいは思考停止して隷従していないだろうか。自らの権力性、排除しているものの存在に気づかない限り、ムラ社会はどこかしこで連綿と続く。

映画では、マスメディアの取材者の姿がちょいちょい画面に現れる。群れをなして粛々と取材先に張り付く記者クラブ記者たち。取材をする五百旗頭さん自身の姿も映し出される。マスメディアもまた、紛れもなくムラ社会の構成員なのだ。

女×地方×フリーランス

今、若くて優秀な記者たちが加速度的にマスメディアから離れていっていることを憂う。多様性なり公正さなり正義なりを世に訴えているはずのマスメディアが、自らムラ社会を築き、何かを排除していないだろうか。

女で、地方暮らしで、しかもフリーランスのわたしは、いろんな観点からムラ社会で割を食っている側に身をおいているが、であるからこそ、排除される人たち、虐げられる人たちに気づく存在でありたい。変わろうとしない有力者や頂点に立つ者たちの引き立て役には、決してなるまい。

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