戦争と平和のリアリズム


佐々木 寛

ささき・ひろし

新潟国際情報大学教授。国際政治学・平和研究。日本平和学会理事。「平和構想提言会議」メンバー、新潟県原発検証避難委員会副委員長、「おらってにいがた市民エネルギー協議会」代表理事。近著に「〈文明〉転換への挑戦—エネルギー・デモクラシーの論理と実践」『世界』(2020年1月号 岩波書店)など。

●戦場のリアルな痛み

今日も、ロシアがウクライナ全土にミサイル攻撃し、国民1000万人が電気を使えない状態にあるというニュースが届きました。行き詰まったロシア軍は、前線の兵士だけでなく、後方の一般市民を無差別に攻撃するようになっています。これが現代戦争の〈現実〉です。

しかし、とりあえず今日明日の戦争の不安もなく、毎日あり余る電気を使って生活を営んでいる日本の私たちは、生活の場が戦場になっている人々の痛みについて、なかなかわが事のように想像することができません。言ってみれば、いつも抽象的に、漠然と戦争を怖れながら、ウクライナの人々に同情しています。

そして、この「抽象的な怖れ」は、自分の身の「当座の安全」を前提としていて、例えば、「隣国の脅威に備えて、わが国も攻撃的な兵器を備える必要がある」といった、実際はとても飛躍した議論の呼び水となっています。そこには、自分とは切り離された悲劇や脅威が遠くにあって、それが身に及ばないように、自分ではない他の誰かが“盾”となってくれる、そういう心理的な前提があるように思います。

現代の戦争は、何が〈現実〉であるのか、それを様々な情報操作やフェイクニュースによって大衆に信じ込ませる技術が駆使されます。それで実際の戦場の痛みは、限りなく抽象的になります。実際に自分の住んでいる家が破壊され、愛する人がガレキの下敷きになり、自分の身体から流れる血の匂いがするまでは、戦争も、破壊も、ずっと抽象的なままです。

しかしほんの昨日まで、ウクライナの市民にとっても、戦争は抽象的でした。戦争をただ抽象的なレベルで考え、自分の生活の〈現実〉から切り離して捉えるだけでは、必ず判断を誤ります。例えば、もし私たちが攻撃的なミサイルを大量に配備するという選択をするなら、近い将来、同じミサイルが自分の街や家にも降り注ぐという想像力が必要です。

●「抑止力」とは何か

安全保障の専門家たちは、よく「抑止力」と言います。しかし私たちは、「抑止」のためにどれだけ軍事予算を増やしても、外交が失敗し、ひとたび武力紛争が起これば、市民が耐え難い結果を甘受するしかなくなるという〈現実〉から出発しなければなりません。

例えば、「台湾有事」が深刻化した場合は、大量の難民が発生します。しかし実際に、それを日本がどのように受け入れるのか、その体制すら整えられていません。あるいは「敵基地攻撃能力」を持つ自衛隊が展開する与那国島が攻撃されれば、そこに住む一般市はほとんど島外には逃げられません。

また、日本の都市や物流の基盤はきわめて脆弱で、ウクライナで起きたように原発などが攻撃対象になれば、日本中の街々で発生する阿鼻叫喚の光景は想像に難くありません。岸田政権の安保政策の大転換は、このような現代戦争がもたらす結果についてのリアリズムが完全に欠落しています。まずは、全ての国民、政策担当者によって、隣国と再び戦火を交えるなどという愚行は、どんなことがあっても起こしてはならないという大前提が確認されるべきでしょう。

もちろん、近年見られるロシアの冒険主義、中国や北朝鮮の軍拡の動きに対して何らかの対応が必要である事は確かです。しかし、これまで「専守防衛」に徹してきた日本が、同じ土俵で大軍拡路線に向かうことは、決して日本の「安全」を「保障」することに寄与しません。歴史上、国家の安全はもっぱら軍事力や軍事同盟によるものではなく(むしろそれらは戦争の原因だった)、ほとんどが開戦を決定する政策決定者同士の意思疎通=外交の力に委ねられてきました。戦争の道具としての軍備(特に核兵器)は「抑止力」として機能する最後のところのギリギリの手段でしかなく、安全を保障し平和を維持するためには、ごく限られた役割しかありません。

岸田政権の安保転換政策は、敵を攻撃するためのミサイルを配備すれば、ほぼ同じ威力のミサイルを自分に向けることになるという「安全保障のジレンマ」についての認識も希薄で、戦争のための(しかも身の丈に合わない)道具の力によって「安全」が実現するのではないかという、きわめて未熟な現実認識に基づいています。

●今必要な「平和構想」

来るべき破滅的な戦争を回避するには、今まさにリアリズムに基づいた自立的な平和外交が不可欠です。

かつて東西で中距離核を向け合ったヨーロッパで冷戦が終焉を迎えた背景には、平和運動と平和研究が結びついた下からの平和構想と、それを実行した地道な外交努力がありました。米ソが作り出した「東西対立」という物語のウソ、つまり本当は米ソの代わりにヨーロッパが戦場になるという〈現実〉を、市民たちは見抜くことに成功しました。

今、東アジアに必要なのも、各国指導者の戦争への意思を極小化するための多元的(マルチトラック)な措置と、軍事に偏向しない包括的な安全保障政策です。何よりも重要なのは、緊張関係にある相手国との間にも「共通の安全」を見い出し、外交的な努力の中で「信頼醸成」を積み上げていくという地道な努力に他なりません。


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