広島にとってG7とは何だったのか(ジャーナリスト 宮崎園子)


ジャーナリスト 宮崎 園子

広島の原爆ドームの前を歩いていたら、警察官に行く手を阻まれた。「部外者の方は迂回してください」と指図してきたのは他県の警察官だった。毎日通る道で、県外から来た人に「部外者」よわばりされるとは。一緒にいた近所の友人と顔を見合わせ、「ここ、私たちの生活道路なんですが」と言ってみたがムダだった。

G7広島サミット開幕を翌々日に控えた5月17日夜のことだ。米軍による核兵器実戦使用によって命と未来を奪われた人々の鎮魂の地であり、内外の人々の交流と憩いの場でもある平和記念公園の周囲にはフェンスがぐるっと立てられ、まるで公園全体に蓋をしたかのような状態が1週間ほど続いた。広島市が公園の所有者・管理者なのだが、公園の内外を分けるフェンスには、外務省の名で「静穏保持指定地域」と赤字で書かれた注意書きが貼られていた。

「部外者」扱いをされた広島市民の私は、学校も学童保育も休みとなり、いつもの公園にも行けない5日間を強いられた子どもの世話をしつつ、「部外者」でもできる範囲で取材をした。部外者かもしれないけど、戦争の理不尽さに対する怒りを抱きながら、核兵器廃絶を願い、そしてついに力尽きてしまった人たちの話をたくさん聞かせてもらってきた広島の記者だし、核兵器のない世界と公正な社会を求める一人の市民だからだ。原爆被害を実際に受けた被爆者の孫でもある。

ある海外メディアの記者が憤っていた。「はるばる広島まで来たのに、ほとんどの日程が取材不可か代表取材、そしてブリーフィングばかり。広島に来た意味がない」。

「知る権利」を背負って仕事をしている報道機関の人たちすら部外者扱いするサミット。核保有国や核の傘の下にある国の首脳と対面した被爆者は、何を語ったか、どんな反応があったかを語るなと命じられた。そして、原爆資料館内で首脳がどんな展示品を見たかの情報も伏せられた。

「核兵器のない世界への決意を改めて確認するとともに、法の支配に基づく、自由で開かれた国際秩序を守り抜く、こうしたG7の意志を強く世界に示したい」。広島1区選出の岸田文雄首相は、サミット開幕を前にそう語っていた。終わってみれば「不自由で閉鎖的なG7サミット」にしか見えなかった。

「広島」の名を冠した共同声明は「核兵器のない世界への決意」ではなく、「核兵器には防衛目的のための役割がある」ことを、核兵器を手放す気がない国々が確認しあっただけの内容だった。旧知の被爆者たちは、こういった。「平和公園が核保有国に乗っ取られた」「平和のまちが、汚されてしまったね」。

しみじみ学んだことがある。それは、戦争に向かう社会の空気感だ。国家総力戦の遂行のため、国家の全ての人的・物的資源を政府が統制運用できることを規定した「国家総動員法」なり、「国の非常事態下で起きた身体や財産の被害は、国民が等しく受忍(我慢)しなければならない」という、いわゆる「受忍論」なり。

サミットの開催地は、「被爆地・広島」ではなく、広島生まれでなければ広島育ちでもない首相のお膝元「広島1区」でしかなかった。わがまちの足元に眠る、奪われた無数の命たちの声なき怒りの声が、私には聞こえてくる。「私たちが求めているのは、そういう社会では決してない」と。


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